工夫&製作ヒント

バス停留所の位置 たった数ミリのことだけど。

工夫&製作のヒントとしては、重めの内容になってしまいました。
というのも、今回の工夫の背景になる”うごめくもの”を紐解かなければ、どうしてこういう工夫が必要なのかがハッキリしないと思ったからです。

それらを紐解くことで、私自身の方向性らしき道筋も見えてきたので、そうした部分をほかの記事に分割することなく1本の記事にまとめさせていただきました。

バス停登場 初期の作品

バスの停留所はガードレールの手前にあります。
私の作品の中に、初めて停留所が登場した作品です。
この時、バスの停留所の設置場所をそれなりに考えました。

ガードレール手前にバスの停留所を設置した理由は、手前のガードレールが切れたところから人の乗り降りがあることを表現したかったからです。

奥にあるベンチでバスを待ち、バスが来たらガードレール手前まで歩いて行き、バスに乗り込むという情景を狙っています。

バス停のある最近の作品

バスの停留所は、初期の作品より奥に設置されています。
この時、私は何も考えていませんでした。

見る人が見れば、ガードレールの手前まで歩いて行って乗り込むことは想像できるのではないかという、私の「奢り」があったのかもしれません。

伝わらなければ意味が無い

最近の作品は、バスの停留所が少し奥にあります。
そうすると、”どこからバスに乗り降りするのかが分からない”という感想が出てきます。

私は、そういうものは、見て、想像をすれば分かると思っていました。

けれども、そういう人たちばかりではありません。

バスの停留所を手前に設置するか、ガードレールに切れ目を入れ、人が乗り降りする場所が一目瞭然となっていなければいけません。

全ての人が見て、”ここはバスの停留所で、ここでバスの乗り降りをする”ということが伝わらなければ、このバスの停留所や待合のベンチを設置した意味がありません。

イメージデザインか伝えることか…どっちが優先?

先ほど、伝わらなければ意味が無いと書きました。

けれども、”情景的懐かしさを最大限演出するには、このアングル!”というものを作者は必ず持っています。そして、そこを目指して作り込んでいきます。

バスの停留所の位置を手前にしたり、ガードレールに切れ目を入れることが、その情景を崩すことにもつながります。

その時に生まれる悩みが… イメージデザインの完成度を優先させるのか、もしくは、誰にでも伝わる演出を優先させるのかということです。

人に伝わることを優先させた場合

人に「伝わる」ことを優先させると、自分の描くイメージデザインに対して、妥協をしなければいけないことが出てきます。

作者としては、自分の理想郷を壊すくらいの気持ちとなります。
そういう時は、作る楽しさが半減してしまいます。

自分のイメージデザインを優先させた場合

自分のイメージデザインを優先させると、どんなに思い入れの強い作品だとしても、それが相手には伝わらないという状況が起きます。

構図のアングルや情景が自分のイメージとピッタリだったとしても、他人には、”バスはどうやって乗り降りするのか?”といった感想しか思い浮かばないのです。

こうなると作品は、自己満足の塊となってしまいます。

作品を作るときの心構え

一番良いのは、楽しく作り、自分のイメージデザインが作品に注ぎ込まれ、それが100%、見ただけで相手にも伝わるという情景を作ることです。(これは理想です)

これができれば、自分も人も満足できる作品が完成します。

人を感動させることだけを考えるようになると、人のために作っている感が出てくるので、作っていて楽しくありません。ともすると、人のために「作品」を作らなければいけないという義務感や拘束感まで出てきてしまいます。

前述の通り、自分だけが楽しめればいいという考えだと自己満足になります。

そういう作品は、”バスの乗り降りはどこでするの?”という感想が多い作品となります。
こういう感想が多く寄せられると、作品の完成当初は自己満足度100%であっても、だんだんテンションが下がってきて、その作品に対する愛着が薄れてきます。

こうして述べている私ですが、”このような心構えで作品を作るべきだ!”という確固たる答えは、見つけていません。

ただ、1つ言えるのは、楽しく作り、皆が理解しやすい表現をするということです。
そのためには、最初から「自分のベストなイメージデザイン」と「人に伝わること」を最大限に引き出し、それらが最大値で結び付くよう模索し、実際の作品に反映させていくということではないでしょうか。

自分の理想と現実の風景にはギャップがある

私の頭の中の情景は、理想郷です。
もしかするとそんな場所はどこにもないのかもしれません。

私が不自然だと思っている、または格好が悪いと思っている風景こそ、現実には存在しているということが多いのかもしれません。

それは、なぜか?

それは、その方が便利だからです。
便利だから、そういう情景が残っているわけで、私の理想郷は、もしかすると実際には暮らしにくい情景なのかもしれません。

ガードレールがバスの停留所のところで切れていなかったら、乗り降りをするためにガードレールの端まで歩くという不便な生活になります。

世の中は、便利なものが残るので、絶対ガードレールはバスの停留所の前で切れているはずです。

ガードレールに切れ目を入れることで私のイメージデザインが崩れてしまっても、それが現実です。現実を再現するから、見る人も感情移入ができて、懐かしむことができるのです。

自分の理想より、”より忠実に現実を再現する”ということの方が、人に感動を与えます。

感動を与えたいけれど、作っていて楽しくない。
なぜなら、現実を再現することは、自分のイメージデザインからはかけ離れ、自分の作りたいものを作っていないような気がする…から。

そんな気持ちになるときがあるかもしれません。
けれども、あまり楽しまずに作った作品でも、その作品を見た人から、「感動した!」という感想をたくさん耳にすれば、きっと楽しくなってくるはずです。

自分のイメージデザインに固執して、自分の思い描く懐かしさを一方的に押し付けてはいけません。そういう作品には、感動は一切ないと思います。

『まぁ、そういう風景もあるかな…』と、こんな感じで終わってしまうと思います。

『そうそう!あれあれ!あー、懐かしい!』と、いつまでも会話が弾むような作品は、現実を忠実に再現することが必要です。

なぜなら、私たちは現実を生きてきたからです。

そういう現実を忠実に再現するということは、実際に生きてきたその時代を忠実に再現するということです。忠実だからこそ、その作品にどっぷりとハマれるわけです。そこから、弾む会話も生まれるのです。

”懐かしさは、こうじゃなきゃ!”という押し付けは、作者としては傲慢で自己満足の何物でもありません。そういう意味においては、謙虚に人の懐かしむツボを忠実に再現するというのが作者の務めではないでしょうか。

たまたま私にそんな技術が与えられたのだとしたら、再現できない人のために、多くの人の懐かしさを拾って忠実に再現するというのが、私の作者として進む”正しい道”なのかもしれません。

まとめ

私が目指していた懐かしい情景は、昭和をイメージしたどこかの商業施設の一店舗でした。
お客様を呼ぶためのディスプレイが強引に詰め込まれた昭和の情景でした。
美しいけれど、どこか嘘っぽい。そんな情景でした。

私が目指すのは、お客様を呼び込むために施された実際のその時代からはかけ離れた情景ではなく、面白みも何もないリアルなその時代の再現です。